ふたつの旅 1

「生活の記録レポート」より

旭川リハビリテーション病院401号室にて

 

私は1943年に静岡県三島市に生まれた。

父はサラリーマンで乳業会社の工場長をしていた。母は料理が上手で優しかった。父は厳しい反面、子煩悩であった。一家は父の転勤で、しばしば引っ越した。

少年時代は千葉の海辺に住んでいた。私は海が大好きで、海の向こうの世界に行ってみたい、大きくなったら外国を旅してみたいと思っていた。

中学、高校時代は長野県の松本で過ごした。松本は母の生まれ育った所で、城があり、北アルプスの山々が美しい土地であった。私は登山が好きになり、乗鞍や穂高の山に登った。

絵が好きだった私は美術学校に進みたかったが、親は許してくれなかった。それならば船員になって海外へ行こうと思い、東京商船大学を受験した。しかし落第し一浪。次の年に結核であることがわかり、父の会社の伝手で、有名な東京にある北里病院(現在の北里大学付属病院)に入院した。その年に、私の父も同じ病院で亡くなった(52歳)。

4年近い闘病生活の間に私は本が好きになり、ギター、絵を独学で学んだ。

22歳の時、私は東京農大に入った。病を経て健康の大切さを知り、私は船乗りではなく、自然に囲まれた静かな田舎で農業に携わってみたいと思うようになったのだ。

1-11970年春、26歳になった私は東京を離れて名古屋の守山にある養蜂研究所に就職した。その研究所の所長は養蜂学界で知られた井上丹治先生で、私は彼の書いた「蜜源植物総説」、「新養蜂」、「ロイヤルゼリー多収の新技術」等を学生の頃に読み、名古屋に行き、高名な先生の門を叩き弟子になったのである。就職という感じではなかった。でも、給料もボーナスも支給されたので貯金もした。それは世界一周に必要な資金としてであった。

1-24年間勤め、私はいつでも独立して養蜂家としても立派にやって行ける知識と技術を身に着けていた。中古の家が買える程度の貯金も出来た。でも少年の時からの夢、世界一周があった。私は世界一周をやり遂げてから独立しても遅くはないと思い、1974年の春、横浜の港からロシア船バイカル号に乗り出発した。結婚したばかりの妻の照子も一緒に連れて行った。

ロシアの船で横浜からナホトカまで行き、そこからはシベリア鉄道でモスクワを経由して、ヨーロッパのウィーンに着いた。何もかも新鮮な印象で、それは私の胸に深く深く刻み込まれた。

1-3民宿に泊まり、近くにあるオペラを見に行った。「ラ・ボエーム」という出し物で、その時のプリマドンナはなんと!松本みや子という日本人女性であった。終わると人々は惜しみない拍手を送った。同じ日本人であることを誇りに思った。


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