ふたつの旅 9

同年7月に北海道の下川に到着した。そこには私達が住める事になった古い農家が、私達が来るのを待っていた。その農家は広い牧草地に囲まれ、大きな納屋が3つと小屋が1つあった。母屋は2階建てで、見かけは古いが土台はまだしっかりしていた。昔の家だから、冬が来たら断熱が悪いのでかなり寒いと思われた。

9-1とりあえず冬が来る前に居間の断熱工事をやった。ブリキの時計ストーブを据え付け、川原に行って流木を集めたり、近くの製材工場でドンコロを分けてもらい、トラックでせっせと運び冬の準備をした。家の前の、元・畑だった所(雑草だらけでとても畑には見えなかった)を掘り起こして土をならした。土はカチカチになっていて、ツルハシとシャベルで起こさねばならなかった。とりあえず秋大根と野沢菜の種を蒔いた。夏の間、東京から山川夫妻が遊びに来た。一緒に山菜取りや魚釣りをして楽しんだ。

下川に移住してきた私達は街の噂になり、名寄新聞には「画家の栗岩さん夫妻 下川に永住の決意」などと大きなトップ記事として扱われ、私達が戸惑う程であった。もともと私もフミちゃんも「来たる者は拒まず、去る者は追わず」という精神であるから、町の人達が私達を珍しがって訪ねて来ると、コーヒーを出し、話をした。町の人達は、右も左もわからず何も知らない私達に親切であった。野菜の作り方や越冬の方法、薪ストーブの扱い方、水を落とす事を教えてくれた。町の人達は、時々トウキビやカボチャやジャガイモ、古新聞を持って来てくれたので大いに助かった。

その年に下川ハイヤーの社長(サトウさん)がリーダーである下川山岳会の会員になり、時々一緒に山に登ったりした。山岳会の山本さん夫妻にも大変お世話になった。毎週のようにキヌちゃんの家に集まり、パーティーを開き、夜遅くまで飲んで騒いだ。

次の年(1992年夏)に私は旭川と名寄と下川で個展(最初の個展)を開いた。これはうまく成功し、絵も良く売れ、私達の生活を助けてくれた。

生活は原則的に自給自足だった。野菜もパンも作った。釣った魚は乾物にして冬の食糧にした。冷蔵庫、テレビを持たない生活をした。本を読み、絵を描き、畑を耕しながら二人で静かにひっそりと暮らしていた。そういう静かな24時間が全て自分の物である生活は、下川に来て4年目の1995年に終わりを告げた。

1995年春(神戸大地震)、私達とチャーリーは九州、宮崎の海岸の小さな一軒家で過ごしていた。宮崎に住む大学時代からの親友が、その家を紹介してくれ、そこをアトリエとして借り、3ヶ月ほど絵を描いた。宮崎から夏に北海道の家に戻った。

9-2私達の生活は決して金銭的には楽でなく、長い間外国への旅にも行く事が出来なかった。フミちゃんが「ここでカレー屋をやるか」と言い出した時は私もびっくりしたが、面白いと思った。そこで早速、私は1階をレストランに改造する為にフリーハンドで設計図を何枚も書いた。名寄で能面を掘っている松本さんに手伝ってもらい、7月から工事に取り掛かった。玄関から厨房まで徹底的に改造した。

11月、ついにレストラン「モレーナ」が完成した。オープンの日、私達の所持金と言えば2万円しかなかった。でも借金はしなかった。2万円、それは釣り銭として取っておいたお金だった。

果たして客は来るのか?自信は全くなかった。それでもニュース性があったので、北海道新聞、名寄新聞の記者が取材に来て大きく報じてくれた(「発想の転換、畑の中のレストラン」の見出し)。開店と同時に客が次から次へとやって来ててんてこ舞いの忙しさだった。第1番目の客は、近くに住む馬を飼ってた佐藤寅太郎さんであった。それから「店の開店祝い」を街の人達が持って来てくれた。それは合計すると20万円近くになった。

こうしてカレー屋、レストラン「モレーナ」はスタートした。


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