アフリカの旅 8-3

目に入る光景や、耳に入る音や鼻から来る匂いはあまりにも刺激的で、私を捉えて放さなかった。黒人たちの明るさと優しい目が好きだった。一日中、どこからかレゲエとアフリカンディスコのミュージックが流れ込んできた。外の物音が絶えても、私の頭の中ではレゲエの単調な歌声が鳴りやまなかった。アフリカの時間はレゲエの中に流れていた。それはどこか郷愁を誘い、私はベッドの中で遠い日本の事を想ったりした。

私はナイバシャで降りた。KEN-VASH・HOTEL(ケンバシ・ホテル)という看板を目当てに歩いた。ホテルは国道から少し入った町の中にあった。大きな立派なホテルで、制服の女性がクロークの所にいた。1泊シングルで800シリングだった。このホテルでこの値段はすごく安い。部屋も立派で、清潔なシャワーと水洗トイレがついていた。

私は部屋に入り、ベッドに身を投げ出しじっとしていた。途中下車したのはまだアフリカに未練があったからだ。シャワールームに入り、体の汗を流した。アフリカの地方では珍しく、シャワーからは熱い湯が出てきたので嬉しかった。

このホテルは高級でいかがわしいムードは皆無で、今の私にはぴったりだ。しばらくここに居てもいいかと思った。

少し休んでから下のレストランに行き、遅い昼食を取った。立派なレストランで、驚くほど静かだった。ボーイが恭しく給仕してくれた。ティーと牛のステーキとフライドポテトを食べた。肉は硬い。この国では硬いのが当たり前らしく、チキンでもマトンでも、柔らかく煮込んだ肉とかグリルとかは期待できない。しかし、噛みしめると味があって美味しい。

一度部屋に戻り、中央郵便局へ出かける事にしてフロアに出た。ここは2階で出口は1階にあり、大理石の螺旋を降りていく。メイドが掃除していた。床は濡れていた。私は疲れのせいか、注意力が不足していた。そして、階段で滑って下まで落ちた。激痛が腰の上あたりに来た。メイドは驚きのあまり、声を出す事も私に手を貸す事も出来なかった。私は自力で這う様にして部屋に戻り、ベッドに倒れこんだ。しばらくじっとしていても痛みは去らず、かなりダメージを受けた事が分かった。

しばらくして、クローク係の女性スタッフが部屋に心配してやって来てくれた。彼女が部屋から電話し、すぐにマネージャーが飛んできた。黒人にしては小柄で痩せぎすで、キビキビと動きよく気の利く人だった。彼はキクユ族だ。

時計を見ると4時頃だった。この後私は、病院へ行くまでアフリカ式タイムであるポレポレ(のんびりやろう)に悩まされる事になる。

氷を持ってきてもらい、患部を冷やした。下川の山口病院の先生に処方してもらった薬を念のために飲んだ。手で触れてみると、ちょうど腎臓の上あたりがひどかった。私はとっさに、これは病院に行かなくてはならないと判断し、ベッド横の電話機でマネージャーを呼んだ。すぐにマネージャーが2人のスーツを着た紳士を伴って来た。初め医者かと思ったが、役人だという。ホテルで事故があった場合は役所に連絡しなければいけないらしくて、それで来ていたのであるらしかった。私はマネージャーに「腎臓の上が痛い」と言った。もし腎臓にダメージを受けていた場合は命に係わる。タクシーで隣町のナクルの病院へ行く事になり、マネージャーがずっと付き添ってくれた。

しかし、タクシーはオンボロでハリボテのようだった。驚いた事に、給油タンクは壊れてしまっているらしく、その代わりにガソリンの入ったポリタンクを助手席の前に置き、そこからホースでキャブレターと繋いであった。危なくて煙草は吸えない。当然車内はガソリン臭くなるので窓は開けっ放しだ。

夜遅くなると街道には強盗が出るとマネージャーが言った。この辺りは高原地帯で、赤道と言えども夜の空気は冷たい。私はセーターを着込んでいたが、それでも寒く感じたくらいだった。マネージャーは黒いスーツに白いワイシャツという恰好だから、やはり寒いらしく震えていた。車がエンコしないように祈るしかなかった。私にはライオンの方が心配だった。

行けども行けども灯りとて無く真っ暗な道で、そのうち雨が降り出し心細い限りだった。走っている車は我々だけだった。使い古した車でダイナモも弱ってるみたいで、ライトは驚くほど暗く、ワイパーは運転席にしかなくてやっと前が見える程度だ。

凸凹道を1時間くらい走った所でインターチェンジがあった。そこには修理工場と食堂とスタンドがあり、裸電球が淋しく灯っていた。人の姿はなかった。ガソリンはまだあるのにどうして止ったのかと思ったら、前輪がパンクしたという事であった。驚いた事に、車にはスペアタイヤが積んでなかった。ドライバーはどこかへ消えたまま帰ってこなかった。マネージャーが「修理工場へタイヤを持って行ったんだ」と説明してくれた。結局パンクを修理し再び走り出すのに1時間くらい待たされた。患部がひどく痛んだが、それでも鎮痛剤が効いてきたようで、なんとか我慢できる程になった。

全く救いようがないくらい要領の悪いドライバーで、マネージャーも呆れていた。何もかも便利な日本から見たらびっくりしてしまう。しかし、これがアフリカの現実だ。ギリギリのところで動いている。整備不良の為、エンジンに火が点いて走ってる車が燃えだすなんて事はアフリカでは珍しくないのだ。そして人々はポレポレ故にあせらずに暮らしている。

ナイバシャからナクルまで車なら1時間位で行ける。しかし、結局2時間以上かかり、ナクルの病院に着いた時は夜の12時近かった。私はそんな事だろうと思って薬を持ってきていたので、パンクの修理中にミネラルウォーターと一緒に飲んでおいた。

病院には夜勤の看護婦が3人と女性の医師がおり、すぐに診察してくれた。医師は30近い(それ以上か)年齢と思われ、インターンでなくて良かったとまずは胸を撫で下ろした。医師は事故の状況を訊き、その後触診をした。医師は背中から腰を調べてから、私を仰向けにして腹部を調べた。腎臓をやられていると腹部を押した時に痛みがあると言った。そして吐き気がして物など食えないと教えてくれた。私は腹部の方は何ともなかったし、吐き気もなかった。医師は注射(鎮痛剤と思う)をしてから、「これで痛みが楽になるでしょう。腎臓には障害はないから心配しなくてもいい」と言った。そしてキル・ペイン、つまり鎮痛剤(ボルタレン)を処方してくれた。無理しなければ治るだろうと言った。私はホッとして礼を述べた。

私は自分の薬を見せた。彼女らは時代遅れの頓服に大笑いした。これは私のホームドクターから日本を出る前に処方してもらったものだと言うと、再び大笑いした。彼女は「あなたにはホームドクターがいるんだ?」と言って笑った。「あんたは大富豪なのネ?」と皮肉ってるのだ。冷たく見えたが、美人で笑うとなにか憎めなかった。そして職業的な興味から、看護婦らと一緒に頓服薬の紙袋や、パックされた薬剤を手に取って見ていた。

診察料は全部で830シリング(1600円)位だった。医師にこの薬は一緒に飲んでも大丈夫ですかと聞くと、問題ないとの事だった。

病院を後に、再び我々は夜道を走り始めた。本当に真っ暗だった。外灯もない。車とすれ違った時は強盗でなくホッとした。私達の車は、今にも止まりそうになる時もあった。すると運転手は片手でハンドルを操作しながら、もう片方の手で助手席の前に置いてあるガソリンの入ったポリタンクやホースを揺するのだ。するとまた流れが良くなって、再び調子が良くなる。そんな塩梅で、腰が痛くなきゃ笑ってしまうところだった。しかしこんな淋しい夜道でエンコしてライオンでも出てきたら、一体どうするのかといささか心配になった。

それでも何とか無事ホテルに着いた時はホッとした。時計を見ると3時を回っていた。それにしても大変な目に遭った。お金もずいぶん使った。自力で歩けるようになるかどうか不安だった。

8-3


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