アフリカの旅 14-1

1998年6月4日

怪我をしてから9日目、少しは良くなったような気がして、私は近くの湖に行き、湖畔で数日を過ごす事にした。

朝、ジョルジュが私のリュックサックを持ち、マタトゥ乗場まで連れて行ってくれた。マタトゥ乗場は人と車でごった返していた。「この車がそうだよ」とジョルジュが教えてくれたのは、トヨタのオンボロデリバリーバンであった。

間もなく車は走り始め、ジョルジュは人ごみに消えた。田舎道を、風を切ってマタトゥは走る。切符売りの少年がドアにしがみ付きながら乗客を捌く。少年の衣服がヒラヒラと風に翻えっていた。こんな光景を、私はインドでもパキスタンその他でもよく見てたので懐かしかった。

すし詰めに人が乗り、車の中ではミュージックがガンガン流れている。やけに調子の良いアフリカンミュージックなので気になり、隣の男に聞くと「よくわからんが教会ミュージック」だと言う。「ゴスペルソングか」と聞くと、ウン、そうだと頷いた。ソウルミュージックの原型だなと思った。私はここへ来て、「アフリカを知らずして音楽を語るなかれ」という気がする。

この音楽と踊りの天才達は、すごいミュージックを造形している。ソウル、ディスコ、JAZZ、リズム&ブルース、レゲエ、ゴスペル、サンバなど我々が楽しんでいる音楽の源流はアフリカなのだ。アフリカ現地にはタアラブ(アラブ系の血の入った海岸の音楽、スワヒリ語で歌われる)、リンガラ(明るく軽快、甘い歌声に特徴がある)、キクユ・ポップス、カンバ・ポップス、ルオー・ポップスなどの他に各地の教会ミュージックが盛んである。また、ジャマイカを凌ぐ程にレゲエミュージックが盛んで、どこの街角にも流れている。もちろんアフリカ人の作ってるレゲエである。

この道は湖に沿ってコンゴニーポストの方へ向かう。30分くらいでフィッシャーマンズ・キャンプに着いた。マタトゥは私をそこに置いて去って行った。静けさと緑が辺りを支配していた。

フィッシャーマンズ・キャンプは英国のキャンプ地を偲ばせる。ゲートには軍服を着て鍔広の帽子をかぶった背の高い老人が座っていた。私が挨拶すると「ジャンボ・ブワナ」と言った。遮断機が上がり、私は教えてくれたオフィスへの道を辿る。小さな小屋があり、そこに黒人の青年がいた。「バンガローが600、ドミトリーが400だ。見てから決めたらいいよ」と言うので、私はリュックをそこに置いて、教えられたドミトリー(相部屋の事)に行った。広い敷地は見事に芝生が刈りこまれ、高さ30メートルもありそうな大木がうまく配置され、快い木陰を作っていた。

私は、ここはヨーロッパだな、と思った。英国人の作り上げたヨーロッパの一部だ。それも理想的な…。アダムスン夫人(野生のエルザ)の住んでいた家もこの近くにある。

14-1ダックスフントと雑種の毛の長い犬が付いてきた。私はチャーリーの事を思い出し手を出してやると、ペロペロとなめた。ドミトリーの小屋の周囲には、鶏や羊が歩き回っていた。キャンプ地の辺りは湖面が広がっている。ドミトリーの所には、人の良さそうな男が座っていた。ここで働いている番人らしかった。窓には金網が張ってあり、中には向かい合って2段ベッドがあった。何か宿舎と言うよりは刑務所みたいで暑そうだった。

私はオフィスに取って返し、600シリング払ってバンガローを借りた。こちらは一軒家で、シャワールームに水洗トイレが付いており、入口には小さなテラスが設えてあり、椅子とテーブルが備え付けてあった。低い屋根の上に樹々がかぶさり、一見して涼しげである。

ベッドに荷を放り出してひっくり返り、タバコを吸った。腰の辺りの痛みが少し酷かったので、ボルタレンを飲んだ。自分でも結構無理してると思った。そのまま眠った。


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