アムステルダム日記 7

1998年6月20日

朝の9時過ぎ、KLM861便は無事成田の空港に着いた。東京は私のいたアフリカよりもむしろ暑かった。

空港での入国審査、パスポートチェックも簡単にパスした。税関では「どこから?」と聞かれ、「ケニヤからです。アムステルダム経由で今着いたところです」と若い係官に返事すると。「荷物はこれだけですか?」と聞くので「そうです」と言うと、リュックの中も見ずにすんなり通してくれた。今日はついてるなーと思った。

横浜の駅で家に電話をして、南伊豆の田中君を訪ねる為に再び電車に乗った。大船から特急踊り子号下田行というのに上手く乗る事が出来た。自由席の方が人が少なく、ゆっくりと寛げた。海の風景を眺めながら缶ビールを飲んだ。日本の景色は「優しい」と感じた。アフリカのあの厳しい自然と対照的だ。

水と安全がただの国。私の目から見ると、全ての人が隙だらけで安全ボケしている。私の目つきは自分でも気づかぬうちに険しくなっているだろうと思いつつ、乗客を観察した。

車内販売の売り子から弁当とビールを買って昼食にした。「日本っていいなー!日本に帰ってこれたんだ」と私は一人で感激していた。他人には1ヶ月でも、この1ヶ月は私には半年にも1年にも感じられるくらい長かった。それほどに、次から次へと様々な事が起こり、様々な事に出会ったのだった。そして、様々な事を考えさせられる旅であった。私は半ば放心状態で窓の外を流れてゆく海の風景を眺めていた。

下田の駅に迎えに来てくれた田中君の車でさらに南へ。彼は南伊豆町弓ヶ浜に住んでいる。ヨットを作る為に、横浜から1年半前に移り住んだ。今の所に土地と小屋を借りて、鉄のヨットを一人で作っている。フレームの組み立ても終わり、外板を張る作業をしている。船の形が出来てくると作業も楽しくなる。見物人も増える。

このヨットが完成したら、ヨットで太平洋を渡り南米の友人を訪ねる予定だという。作業場は鉄工場となんら変わらない。彼はヨットを作る目的で、伊豆に来る前は鉄工場や造船場で溶接などの仕事をして鉄のヨットを作る為技術を身に付け、また制作の為の資金も貯めた。独立独歩の人である。

以前にはY-15とセーリングカヌーを作っている。今度のは長さ12メートル、幅3メートルと相当大きい船だ。鉄で作る場合は、溶接時に発生する歪みとか残対応力とかの処理が最も大変だという。材料は木に比べたらものすごく安いのだが、何にでも泣き所はある。しかし、スチール船の強みはショックに強い事だろう。少しぐらい岩で擦っても穴が開かない。凹むだけだ。それに比べ、FRPは卵の殻みたいに脆い。それもあって鉄製のヨットを作る事にしたという。

彼の小屋のベッドで私は昼寝した。体は日本との時差に慣れてない。ナイロビとアムステルダムの時差は1時間で済んだが、アムステルダムと東京の時差は7時間もある。

夕方、サトウ先生も来られて歓迎してくれた。作業場の中で、ビールで乾杯した。サトウ先生は途中で自宅に帰られたので、私と田中君の二人で色々な事を語りながら一晩飲んだ。

田中君とは、かれこれ20年の付き合いだ。学園闘争華やかなりし頃、彼も私も大学生だった。彼は羽田事件の時に捕まって刑務所に政治犯でぶち込まれ、その後日本を出て、兄を頼ってカナダに行った。彼の兄は漁師相手にスジコの買い付けをやって一儲けを狙う山師の一人だった。しかし手形の不渡りを出して、ついに逃げてアメリカへ行った。田中君はアメリカで日本へ帰る金を働いて作って、一人で日本に帰った。山師の兄はフィリピンに行って消息不明となった。

私が田中君と会った時は、川崎のガード下のちり紙交換屋で働いていた。その頃は金になったので、私も中古のトラックを飼ってそんな仕事で糊口をしのいでいた。それ以来の付き合いだ。

田中君はその後、毎年アラスカのエスキモー部落に夏に行って暮らしていたが、途中からヨットの世界にのめり込んだ。私は今のカアちゃんと一緒に沖縄や外国を旅して歩き、ポルトガルから8年前の1991年に下川町の今の家に移住した。田中君も下川町には2回くらい遊びに来てる。私も毎年、東京に出たら彼を訪ねている。そんな間柄である。

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