マジャールの残影 41-3

1時頃に起きて、キッチンで食事した。もう女の子たちはどこかへ出かけていなかった。

食事の後少し休んでから、私達はアパートの前から西駅の前のガードをくぐり、エリザベート通りを歩いて、オクトゴンにあるリスト音楽院へ陣内君の弟に会いに出かけた。

やっとリスト音楽院を探し当て、中に入る。薄暗い古い建物だった。

フロアには学生たちが群れていた。その中に東洋人の女学生が2人いたので声をかけた。やはり日本人だった。しかし彼女らは、赤の他人を扱うように素っ気なく、冷たかった。外国でこういう日本人に会うのは興醒めだ。私達は探すのを諦め、ホテルに帰った。

もっとも、仕方ない部分もある。外国で留学なり仕事をしている日本人は、日本人ツーリストを警戒し、嫌う傾向がある。

日本人観光客の中には程度の悪いのもいて、うっかり親切にしてあげたら逆に迷惑をかけられたり、ひどい目に遭ったりという事が起きる。それは在留日本人の間で噂になる。

ヨーロッパにいる在留日本人から見たら、本国からやって来る日本人観光客は、さしずめ田舎から大都会に出てきて、辺りをキョロキョロ見回している田吾作どんみたいなものだ。自分が恥ずかしくなるのである。

結局そんなこんなで、観光客の日本人との間には一線を引くという訳なのだ。

「オープンマインドの人間なんて、そんなにいるもんじゃないわ」

とフミコがポツリと言った。同じ日本人から、そういう冷たい扱いを外国で受ける事は一番寂しい事かもしれない。

「エゲルで会った中国料理店の支配人のチェンさんの方がずっと親切だったよな」

と私も言わずにはいられなかった。チェンのプレゼントにもらったトカイワインがまだある。

私達はインドのダラムサラ(インド北部、チベットの国境近くにある町)に家を借りて6ヶ月ほど暮らした事があった。

私は毎日、スケッチブック片手に町の中や村の中、チベット人部落などを歩き回っていた。山の上のチベット人の町、アップダラムサラには亡命したダライラマが住んでおり、立派なラマ寺もあり、坊さんやチベット人がたくさん住んでいた。私はしばしば、そちらの方へもスケッチに出かけた。

すると、山道で日本人のカップルによく出会った。どうもチベット図書館前の会館の設計者のようで、建築現場でよく見かけた。

私は村人に会った時にも挨拶する事にしてるので、この日本人のカップルにも挨拶をした。当たり前のことだ。しかし、相手はいつも迷惑そうな顔をして、会話をさける様に通り過ぎてゆくのだった。

私達が半年ほど滞在する間、このカップルとはついに交流できなかった。むしろ、チベット人の小学校の先生のタシ君などの方が、家を探してくれたり、チベット人の祭りに招待してくれたり、よく家にも遊びに来てくれたし親切だった。

もっとも、こんな日本人ばかりではない。私達のすぐ上の家を借りてた人は長崎の人で、現地のチベット人女性と一緒に住んでいた。私達がいる間に赤ん坊が産まれ、私達は赤飯を炊いてお祝いをした。

宿を探しあぐねてウロウロしている旅人を見かけた時は、私達の知っている宿を教えてあげた。それでも宿が見つからぬ時は家に泊めてあげた。私達は、旅人がヨーロッパ人でも日本人でも同じように扱った。

それで色んな友達ができ、世界が広がったと思う。

hungary41-3


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