マジャールの残影 42-1

1997年5月31日 天気不安定 肌寒し

医師に貰った心臓の薬を飲み始めてから、大分気分が良くなってきた。

朝起きて、茶を沸かし日記を書く。フミコも、別の部屋を借りているドイツ人の女の子達も、まだ寝ている。

このアパルトマンはブダペストの中心部、西駅ニューガティにあるにもかかわらず、建物の構造のせいでほとんど物音が聞こえてこない。静かだ。時計の振り子の音があるだけだ。

私はキッチンのテーブルの上でこの日記を書いている。

腹が減ったので、冷蔵庫からパンとチーズを取り出して食べた。

出勤の人達がアパートの廊下を足早に歩いてゆく音が時々響く。ガチャンと音がするのは、エレベーターの止まる音だ。

窓から下を見下ろす(ここは4階)と、ストリートには通勤の車が溢れ、歩道を勤めの人々が足早に歩いているのが見える。犬を連れてゆっくりと散歩している人も見える。歩道には西洋ヤナギやマロニエの並木が続き、レストランの前には白い椅子やテーブルが並べられている。

人々の影が並木の下に見え隠れしているところは、熱帯のサンゴ礁を思わせる。色とりどりの夥しい魚たちが、テーブルサンゴの下や海藻の間に見え隠れしている様を私は思い出してしまう。人間も、なんだかんだと理屈をこねてるけど、所詮そのようなものかもしれない…。

トロピカルな美しいサンゴの海、それは紛れもなく弱肉強食の世界ではあるが、明日の事を思い煩い、不安を抱えて生きてる魚なんていやしないだろう。美味しいものを探して泳ぎ回り、腹が満ちたらどこか深い穴の中でユラユラと眠る。毎日がハンティングと逃走。魚たちは原始的に、エキサイティングに暮らしてるようだ。

巨大なアパルトの迷路のどこかで水の流れる音がしている。もっとも高度に発達した文明の頂点の中で、人々は退屈し、死にかけているようにも見える。ここに居ると、大都会のアンニュイを感じてしまう。

しかし、ブーダペシュトは人間の作りだした都市の中でも有数の美しさを持っている。奥ゆかしく上品である。マジャール族の高度な芸術性が生み出した街だ。失われたヨーロッパがここにある。

hungary42-1


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