続・自転車旅行(スペイン・ポルトガル編)3-3

1990年7月20日

少しばかり頭のおかしいオバさんが隣にテントを張って3日になる。

このキャンプ場の立地条件は、様々な人間をここに集めるようだ。キャンパー、旅行者の他にもルンペン、売春婦、アル中、気違い、泥棒、その他わけの分からぬ人間etc…。おおよそ我が日本の健全なるキャンプ場では考えられぬような事が多い。

このオバさんは60歳を過ぎてるように見える。ちょっと見たら、どこかの主婦という感じである。言葉が分からぬから、どういう生活をしているのかも分からぬ。他に宿がないからここにキャンプしているらしい。

夜中に大声で喚きだして、チョウも僕らも目が覚めた。彼女はポルトガル人である。チョウの話では、彼女は依存症か何かで、助けてやるとどこまでも図に乗ってきて、終いにはこちらも駄目になってしまう、との事だ。僕はその話を聞いて、船乗りシンドバッドに出てくる海じじいの事を思い出した。哀れな老人が、歩けんので肩に乗せてくれと言うので乗せてやったら、急に首を絞めつけて、そのあとシンドバッドは奴隷のようにこき使われるというものだ。

そのオバさんが、夜中にゲーゲー吐いて苦しそうなので、心配になりパトロールを呼んだ。キャンプ場には診療所もあるから、医師に診てもらうことも出来るのだ。

我々がパトロールを呼び、一緒に彼女のテントに行くと、あれほど騒いでいたのに、シーンと静まり返ってる。手遅れで死んでしまったのかと、一瞬不安になった。パトロールの人がテントを開けて彼女に声をかけ、しばらく彼女に様子を聞いていた。その後パトロールの人は「もう良くなったと言ってる。大丈夫だよ、ノープロブレム」と言った。それから「知らせてくれてありがとう」と言って去ってしまった。しばらくすると、彼女はまた苦しげに呻き始め、我々は結局朝までそれに付き合わされて眠れなかった。

僕は割り切れる方だが、フミちゃんはそういうのが黙って見てられぬ性分だから、神経が参ってしまう。だからテントを畳み、彼女のテントから見えぬ少し離れた所に移動した。

夕方、ビールを飲んでいたらオバさんが来て「ビールをくれ」と言った。「あんたは体の具合が悪いのだから、お酒と煙草は止めなきゃ駄目だよ」と、手振り身振りを入れて、日本語で僕は答えた。「あんたのおかげで、俺達は眠れないんだ」といささか頭にきて怒鳴ると、彼女は諦めて行ってしまった。去っていく彼女の背中を見て、フミちゃんは「気の毒ね」と言った。

僕も彼女を気の毒と思ったが、どこかで線を引くしかないと自分に言い聞かせた。助けてやりたい。しかし自分達に何が出来るだろう。彼女は愛情を必要としている。しかし、それがあまりにも一方的であるが故に、誰も相手にしてくれない。

ひどい地獄だと思った。地獄はあの世にではなく、この世にあるのだ。自分の心の持ち方、そして運命によって、我々はこの世の地獄から天国まで歩かされる。自分で歩いていると感じられる人はまだ幸せだ。しかし、どんなひどい地獄も死とともに消える。死によって救われる。どのような苦しみも悲しみも、永久に続かない。死はそれらから我々を引き離し、安らかな眠りと休息を与えてくれる。そう思えば気が楽だ。

人生が楽しくてたまらぬ人には、死は辛いだろう。しかし、人生が苦しくてやり切れぬ人には、死は救いだ。かかる意味において、人間が一度は死なねばならぬという宿命は、人々の生を公平にするのだ。


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