やっぱしエエな、旅は 10

10夕方、砂漠の中の小さな食堂が1軒と公安局、建物が数軒ある限りの集落に差し掛かった。

バスが止められた。検問らしい。公安の若いお巡りが車の点検をしている。運転手が呼ばれて何か言われていた。

このバスはクラクションの音が蚊の鳴くように小さく、その上ウインカーも点かないので通行を許可できないという事らしい。乗客と運転手が考案に頼んでも通してもらえなかった。

結局2時間くらいすったもんだして、罰金を払いようやく出発する事が出来た。

気が長くなくても、ここでは気が長くなければやっていけない。泥棒の件で1時間、車両の不備の件で2時間も時間を無駄にしている訳だが、そんな事を気にする客は誰もいない。むしろこの国では、こうした事を当たり前の事と思っているようだった。

バスは砂漠の中の悪路や川を渡りながら走り続け、夜8時頃、どこかの宿場に着いた。

そこで乗客は夕食を取った。ムスリムなレストランだ。

少し離れた所に漢人のレストランがあったので、焼き肉、ロースー麺とチータンタン、卵とトマトのスープ、米飯で食事をした。頼んでから出来るまで時間が結構かかり、バスが我々を置いてきぼりにしないかと気にしながらの慌ただしい食事だった。

食事を終えて外へ出てみると、もうバスに乗客は全部戻り僕らを待っていた。フミちゃんはトイレに行ってまだ来ていない。仕方がないから探しに行く。フミちゃんは、用心深いわりにはのんきなのだ。こっちは気が気ではない。

やっと見つけて、走り始めたバスに飛び乗った。乗客や運転手は文句を言ったが、バスが走りだすと、もう忘れてくれた。

夜11時ごろ、アトスの町の近くを通り過ぎた。

アトスはがめつい商人の町で、中国のあちこちの町にいるマネーチェンジ屋はアトスの出身者が多いという話であった。面白くなさそうな所だった。

町を通り過ぎた所でまた検問があった。ここでも、しばらく公安と揉めた。

カシュガルまであと50kmだというのにこんな所で降ろされてはかなわないと思っていると、何とか公安と折り合いがついたらしく、バスは再び走り始めた。

時計を見ると12時を回っている。やっと暗くなり始めた。

カシュガルの町へは夜中の1時頃着いた。

アラビアンナイトの世界に飛び込んでしまったようだった。道の両脇の店にはランプや裸電灯が灯り、シシカバを焼く煙が立ち込めている。町は昔ながらの民族服を着た人々でごった返していた。家は泥造りのアラブ風が多い。回教帽に白髭を生やした老人が、ロバを引く荷車でバスの傍らを通り過ぎる。

カシュガルは、何か今までになかったムードに包まれた町であった。この街は99パーセントがウイグル人だという。モスクがあり、朝に夕にコーランの詠唱が流れる町であった。

5月16日に香港を出発してからここまで来るのに、僕らは2か月半かかった事になる。

カシュガル滞在後、私達は再びオンボロバスに乗り中国とパキスタンの国境に向かった。ヒマラヤのクンジュラフ峠(5500m)を越えた時は寒くて震えた。

フンザに1ヶ月程滞在した後、パキスタンの平野に下って行った。

ラホールは40度を超え、死ぬほど暑かった。私達は、目的地であるインド目指してさらに東へ向かった。

第1回目のインドの旅から14年の月日が流れていた。しかし、胸の中ではいつもインドが私を呼んでいる声がしていた。

国境を越え、旅はパキスタン、インドへと続く。

 

本作は同人誌「誌も河」に掲載されていたものを加筆、修正したものです。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

Current day month ye@r *