旅の記録 パキスタン編 3

pak31989年7月24日

砂埃にまみれて夜の10時頃にやっとカシュガルに到着した。

乗客達はどこに行ったか、あっという間にいなくなり、取り残された私とフミコはしばらくの間ポカンとして立っていた。

バスの運転手が教えてくれたすぐ目の前のホテルに泊まる。しかし一晩中うるさくてよく眠れなかった。

次の日、もっと静かな所にある老賓館(ロウピンカン)というホテルに移った。中庭もあり、格式のある昔風の大きなホテルでサービスもよく気に入ったので、ここに1週間滞在する事にした。とにかく情報を集めえばならない。

ここのホテルのロビーで、パキスタンからやって来たバックパッカーからフンザやギルギットの情報を聞いた。そして私達が旅してきた中国の情報を彼らに教えた。

カシュガルは砂と泥壁の建物、そして背の高いポプラの街だった。風の無い日は霧が立ち込め、幻想的だった。その霧は本当の霧ではなく、浮遊する非常に細かい砂の粒子である。

ここまで来ると中国人は非常に稀で、ほとんどがトルコ系ウイグル人だった。青い目や茶色の髪の者もいた。人々は頭を布に包み、緩やかな服を着ていた。一昔前のトルコ人に似ていた。

私達はこの街で、取りつかれたように毎日歩き回りスケッチを続けた。絵具とスケッチブックはウルムチで一緒だった日本人職業画家のトシさんに頂いたもので重宝した。

スケッチを始めると見物人に取り囲まれ、視界を妨げられ描けなくなる事もしばしばであった。フミちゃんが立って、千代紙で折り鶴を作ってみせると見物人はそちらに移動するのでその隙に描くという塩梅だった。それで私は早く描けるようになった。

ある日、私達はこの街で日本人孤児に会った。食事しようと偶然に入った裏通りの小さな食堂の主人であった。年の頃は50歳くらい、胡麻塩頭の小柄で温厚そうな人だった。

片言の中国語で料理を注文すると、彼は私達に「ズーベンレン(日本人)か?」と聞いたので頷くと、急に涙を流して自分を指さして何度も「ズーベン(日本人)」と言った。

私達はテーブルにかけ、彼と筆談した。中国人に育てられた彼はもうとっくに日本語は忘れてしまっていた。それで彼の父親が日本兵であった事、そして彼が残留孤児である事が分かった。

その間に彼の奥さんと娘さんが料理を作り、持ってきてくれ、お茶を出してくれた。近所の人も集まって来て、私達に会い涙を流して喜んでいる彼に「良かったね」と言うのだった。

当時、カシュガルまで来る観光客はほとんどおらず、若いバックパッカーか旅人くらいであった。彼等は街の中心部のホテルやガイドブックに出てるレストランを利用する事が多く、こんな下町の小さな食堂を利用する者はいなかった。
彼は日本の事を色々と聞いた。日本人の平均収入の事になると、彼も周囲の人達もとても信じられないという顔をして目を丸くして驚いていた。聞かれたので正直に答えたまでだったが、彼等の平均所得を考えれば無理もない事だった。

食事が終わって代金を払おうとすると、彼は受け取ろうとしなかった。

彼に「日本に帰りたくないのか」と聞くと、「日本には帰ってみたい。しかしあまりにも遠いし、今はここでこうして幸せに暮らしているから」と言い、家族や近所の人達の方を見てウイグル語で何か喋った。皆は笑い、頷きあっていた。私も彼は日本に帰るよりも、ここで暮らしてる方が良いに違いないと思った。

別れる時に私達は500円玉を彼にプレゼントした。「500円は何元になるか」と聞かれ、正直に答えると彼は目を丸くして、とても受け取れないと言った。ここの物価は日本の1/10くらいだから、500円は5千円くらいの価値があるのだ。「一期一会の記念としてどうか受け取って下さい」と言うと彼も分かってくれ、大切にすると言った。

私とフミコが店を出て振り返ると、彼も彼の家族も近所の人達もいつまでも手を振っていた。

私もフミコも彼への同情の念と異国人らの人情に触れ、涙ぐむ思いであった。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

Current day month ye@r *