旅の記録 パキスタン編 4-1

pak4-11989年7月29日

ウイグル族の都カシュガルに来て5日が過ぎ、土地勘も付き、ここでの生活に早くも慣れてきた。

ここでのタクシーはロバの牽く馬車で、車を見かける事はなかった。荷物を運送するトラックを見かける程度だ。

地球上にはこんな土地がいくらでもあるし、むしろそういう土地の占める割合の方がずっと多い。アメリカのスタンダードグローバリズムが全てではないし、グローバリズムが貧しいものを救う訳でもない。文化を破壊し土地を取り上げ彼等の生活をさらに貧しくするだろう。一部の人間だけがその恩恵にあずかるだけだ。

話は前後するが、国境の街イーニンからカシュガルまでの旅はハラハラするようなアドベンチャー旅行だった。

イーニンから険しい天山山脈を越え、天山南路の町クーチョーまで行き、そこでバスを乗り換えてカシュガルに着くまでに1週間かかった。

バスの運転手にとってはそれが仕事であり日常であって冒険ではない。しかし私達から見ればまさに冒険だった。クーチョーまでは悪路が多く、人の住まない土地がほとんどであった。山賊も潜んでいる。

宿はバスステーションの2階とか横にあり、極めて質素なものだった。夕食にありつけない事もあった。

出発して3日目の夜の9時頃に砂漠の中のバスステーションに着いた。周囲には人家なく、真っ暗だった。荒野がどこまでも広がっていた。風呂はおろか、食堂も無かった。腹を空かした乗客たちは怒り出し、運転手に詰め寄った。

「あるにはあるが、ここから5km先だ。この時間じゃもう閉まってるよ」と運転手は答えた。乗客たちはブツブツ言いながら部屋に入り眠るしかなかった。

私達の部屋は3人部屋でベッドしかなく、天井の真中から裸電球が一つぶら下がっているだけだった。

中国人の若者が一緒だった。私とフミコはザックから非常食として常に携行しているパンと干し棗を取り出し遅い夕食を始めた。若者は食糧を持っておらず、壁の方を向いてベッドに座っていた。私達が彼に食糧を分けてやると嬉しそうに笑った。

食事が終わると彼は部屋を出て行った。しばらくするとバケツを下げて戻ってきた。中には湯が入っていた。彼は仕草で「これで顔と足を洗え」と言った。お湯で埃まみれの顔や手足を洗うと不思議に気分も良くなった。彼の好意が嬉しかった。


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