タスマニア旅日記(自転車旅行) 42-2

au42-2空港の荷物あずかり所に荷物をキープして、ウォークマンとスケッチブックだけを持って地下鉄でサクラキーに行った。日本で言えば横浜の山下公園みたいな所である。プラス・香港とゆう感じ、一日中楽しめる所だ。

カフェでホットチョコレートを飲んでから、売店でチップスとコーラを買ってダーリンハーバー行のシドニー・フェリーに乗った。これは水上バスみたいなもので、船は昔風である。市民の足だから、どことなくローカルな感じ。料金も安い。

ダーリングハーバーに行くまでの間、いくつかのさん橋に寄り、客を乗せ、おろした。さん橋への横付け(ランディング)の操船は見事なものだ。船員のもやいロープの手さばきはあざやかで手品みたいだ。それを見てるだけでも面白い。私はチップスをつまみながらそれを眺めていた。

ハーバーブリッジの下をぬけてザ・ロックスを回って船は広い入江に入ってゆく。そのどんづまりがダーリングハーバーで、高層ビルへの海からの入り口でもある。タウンホールはこの近くで歩いてゆける。

船をおりた所にシドニー水族館がある。私はチケットを買って中に入った。

ガラスばりの水中トンネルがありその中に入ってゆくとサメやマンタの巨大なものから小さな魚の群に至るまで所せましと泳ぎまわっている。猛毒のブルーリング・オクトポスはついに見れなかった。しかし、川、湖沼、海の生物とその生活環境を見事に再現して見せてくれるこのシドニーのアクアリウムはすばらしかった。

水族館から出ると陽の当る所は照り返しが強く夏の暑さだった。日陰に入ると涼しい。陽の当らないテーブルでカップティーを飲みながらダーリングハーバーを往ききする船を見てすごした。

古好みの私には、ここはモダンすぎてスケッチするものが見つからなかった。あきらめてシドニー・フェリーに乗りサクラキーにもどった。

あの貝殻みたいな建物(オペラハウス)に歩いて行った。間近で見ると実に巨大な建築物で貝殻状の屋根にはタイルがびっちりと張られていた。気が遠くなる程のタイルが使われてる。これを全面に張る仕事も気の遠くなるものだろう。

いったい誰がこんな不可思議な構造物をデザインしたのか。デザイナーはあきらかにアボリジニの独特なフィーリングの宇宙感覚の持ち主か、あるいはその協力を得てデザインしたと思える。

アボリジニの空間芸術は、まったく私達の想像を超えたものだ。

日ざしがきつく少しつかれた。地下鉄で空港にもどると5時でチェックインがすでに始っていた。朝来た時に、チェックインカウンターの場所をチェックしておいたのでまごつかずにすんだ。

リコンファームはしなかったので多少不安だった。10日くらい前にジュディーにたのんでコリアエアラインのシドニーオフィスに電話してリザーブしてあった。何の問題もなく、チェックイン出来た。ボーディングパスをもらい、バックパックを渡し、軽い手荷物とパスポート入れと現金だけ持った。

まだ時間があるので買物したりブラブラしてすごした。オーストラリアではポピュラーな皮のつば広帽子を買った。こちらでは皮製品が立派で安い。

フミコへのみやげはフリンダース島を自転車で回った時にひろった、ユーカリプスの実、今では見る事のできない大きなアバロニ(あわび)と黒しんじゅの貝殻等である。その辺では手に入らないものである。コアラの人形もフミコのために買った。

皮のつば広帽子を買った店も暇そうだった。空港内の売店はどこもそんな感じ。店の主人は、他に客もいないし、私がある程度英語がしゃべれるので話しかけてきた。

「これからどちらへ行くんですか」
「日本に帰るところなんです。オーストラリアは気に入りました。タスマニアにほとんどいたんですがネ」
「ビジネスですか」
「いやホリデーです」
「日本の景気はどうですか?新聞やT・Vでは低下していると言ってますが」
「まあネ、ノット ソーグッド、アワー エコノミー ビケム ゴーダウン コンティニュー ファイブ イヤー」と私が言うと彼は
「オーストラリアもグローバリゼーションとアフガン戦争とテロのあおりで良くないです」とこぼした。
「私の父は1960年にギリシャからオーストラリアに来たんです」
「レフュイージー(難民)ですか?」
「ノー イミグランス(移民)」
「ギリシャじゃ貧しくて食えなかったんですよ」と彼は父親の事を話しはじめた。

文なしでオーストラリアに来て、空港の中のモールに立派なみやげ店を出すまでには相当な苦労があったであろうと私は思った。

「世の中がこんなじゃツーリストも来んです。売上げはアメリカのテロ以後下がりました」と彼は少し心配げに言った。

どんな仕事を日本でやってるのかと聞かれたので、シェフだと言うと、

「店を持ってるんですか。それとも働いてるだけなんですか」と彼は言った。
「持ってます。小さいけどネ」と私は言い笑った。
「日本も不景気だから経営は大変でしょうね。イズンネッツ?」
「まあ楽じゃないです」と私は言った。

最初からもうかるレストランじゃなかったけど、めんどくさいので私はそんな事は言わずにおいた。そのうち私を見て、他の日本人客が店に入ってきて買物をはじめた。私が「See you」と言うと彼は笑い、「ハバ グッドタイム」と言い手をふった。

夜7時半、私の乗ったコリアエアーラインの飛行機は離陸した。「オーストラリアよさようなら」私は心の中で手をふった。シドニーの灯がずっと下に星のように見えた。

私のとなりの席は韓国人の中年の男性だった。

最初は黙って新聞を見ていたが、機内で食事が始まりアルコールが入ると彼は片言の英語で話しかけてきた。

「アーユー ジャパニーズ?」
「イエス アーユー コリアン?」
「イエース、アイゴー イーセン(ソウル) マイハウス イーセン、ア ユー アンダスタンド」こんなふうに私も片言、彼も片言だから会話に無理がない。スムースに流れる。

彼は「アー ユー ビジネス?」と聞いてきた。
「ノー、ホリディー」と私が言うと
「アイアム ビジネス。ベリイ ベリイ ビジー」と彼は言い手を上げてみせた。
「ビジネス ビジー、ユー アー ベリーハッピーね」と私が言うと
「ノーノー、ディスタイム エコノミー バッド」と彼は空港の主人と同じ事を言った。ヤレヤレ、いずこも同じか……そんな話はつまんないので私は話を変えた。

「アイ ライク ビビンバ」と私が言うと彼はうれしそうに目を丸くして
「オー ユー ライク ビビンバ、ビビンバ ベリーグッド!」と言った。
「ユッグジャン、クッパ、キムチ アイ ライク オールソー」と私が言うと
「オー!オー!ユーノー エブリシング」と彼は言った。

自分の国の料理を私が好きだと知り、彼は気分がいいらしかった。彼も戦後生れ、私もそうだ。直接、第2次大戦の心の傷を受けてない。だからこうして笑って話せるのだろう。

「ハウトゥー メイク ビビンバ?」と私が質問すると彼はいかにビビンバをつくるか、薀蓄をかたむけて話してくれた。焼コチジャンソースの作り方が決め手であるようだ。これには彼等のこだわりを感じた。

話はこんな調子で進んでゆく。アルコールが体を回っていい気分だ。簡単な単語でも、ネイティブでない同士なら十分に話しあえるし、会話を楽しむ事が出来るのだ。

ワインとビールを数本飲む頃には飛行機はジャワ上空を飛んでいた。私達は心よい気分で会話を続けた。

 


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